アサヒビール 歴代社長 写真

アサヒビール 歴代社長 写真

福地茂雄、アサヒビール㈱会長に就任。池田弘一、社長に就任(1月)。 アサヒビール食品㈱とアサヒビール薬品㈱を統合し、アサヒフードアンドへルスケア㈱を設立(7月)。 アサヒビール㈱とオリオンビール㈱による包括的業務提携の合意(8月)。 アサヒグループホールディングスが役員人事を刷新、主要子会社のアサヒビールの社長を3年で交代させた。しかも、アサヒビールの歴代社長はホールディングス幹部に昇進してきたが、前社長の平野伸一氏 … 1999年09月22日村井、樋口の出番が逆だったら成功はあり得なかった/アサヒビール名誉顧問 元アサヒビール代表取締役副社長 中條高徳企業家倶楽部1999年10月号 アサヒビール奇跡の真実 vol.21927年、長野県生まれ、72歳。陸軍士官学校に学んだ後、52年、学習院大学文政学部卒業、同年アサヒビール入社。82年、常務営業本部長に就任。アサヒビール生まれ変わり作戦を企画立案、実施の指揮を執る。88年、代表取締役副社長、90年アサヒビール飲料代表取締役会長就任。96年アサヒビール特別顧問。98年アサヒビール名誉顧問。98年5月、朝日ソーラー販売の経営顧問に就任する。 ある時を境にして、アサヒビールの社長の席には住友銀行出身の人が座ることになりました。どうして住友と縁ができたのか、成績が悪くて送り込まれたと思われている方も多いでしょう。歴代社長の顔ぶれから、アサヒビール復活・再生までの道のりをたどってみたいと思います。 戦後、アサヒビールは山本為三郎を大将として分割され、山本は一九六六年に亡くなるまで社長に君臨しました。 この社長に惚れたことが私の入社の大きな理由だったことは、前回お話ししました。山本社長にシェア奪回の抜本策を作れと言われたことが、六十二年、「生こそ命」の提案になり、六十四年のアサヒタイニーに結びついたわけです。 その二年後、六六年二月四日、山本社長は本当に青天の霹靂のごとく世を去りました。企業のコンセンサスは、トップのリーダーシップの強弱に正比例することは間違いありません。そのトップがあれほど「生、生」と言っていたのだから、まことに身びいきな仮説ですが、山本社長が生きていたら、生の路線をもっと迷いなく推進して、勝つ日がもっと早くいただけたんじゃないか、と思うこともあるぐらい、アサヒビールにとっては運命の日でした。 山本為三郎は、それほどのワンマン社長でしたが、亡くなる一週間前に末席の常務、中島正義を専務に任命していたんです。神のお諭しとしか言い様がありません。一月末には、野村証券の野村徳七さんの仲人をして、四十分も長広舌したほど元気だったんです。そしてその最中に胸苦しくなって、緊急入院しました。 これは山本さんのあまり知られていない一面ですが、彼はワンマンということを自覚していて、太陽を絶対者として己に照らし、誤りなきように生きていた人だったんです。病院で調子がよくなったから、二月四日に「暗幕を開けろ、太陽を拝む」とベッドから半身を起こすエネルギーに、心臓が耐えられなかった。それで七二歳で亡くなりました。今、自分がその年になっていることを思うと、感無量です。 当時は専務が社長に次ぐ最高の役職でした。社長の死の一週間前に末席常務から専務になったのは遺言に近い。しかも戦後、アサヒビール最初の専務です。だから中島が後継社長に就任しました。山本社長が生きていたら、中島はまだ器量に至らない、後継に指名しておいて自分は会長社長となり、しつけ充分とみた頃に社長の部分を外そう、という心づもりだったのでしょう。 中島正義という人は、父親は近衛師団長、兄は三菱製鋼社長、後に三菱総合研究所所長も務めた中島正樹さん。ご本人も大変ノーブルで、営業部門はあまり経験がありませんでした。きっと成績のいい時には素敵な社長だったでしょう。しかしこんな状況の指揮官としては、いささか大人しすぎたというか…。私はだいぶ個人的にかわいがってもらったので悪くは言いたくないけれども、そう言わざるを得ません。 三期六年たたないうちに、シェアが落ちてくる。山本為三郎は、住友は自分のグループ、朝日新聞は自分の新聞社のごとく振る舞った人で、器量も大きかったんです。住友グループに応援してもらわなければ成績は上がらない。だから中島新社長も錚々たる方々を料亭にお招きするとか、そういうことをしようとした。断られたんですよ。それには及ばない、と。 今でも私は、あれは友情だったと信じています。五六歳かそこらで社長になって、そんな若いのに背伸びして大先輩を真似せんでもいいよ、と。そう手の平返すようなことはしませんよ。しかし本人は、兄貴が三菱だから住友の人たちは素直に応援してくれない、と被害妄想に陥った。成績は上がらない、イライラする、挙句にそういうことが重なる。自分がこの座にいることはアサヒビールにとってマイナスなんじゃないか…。そう考えて中島社長の住友銀行参りが始まった。相談役か監査役の任にあった堀田正三さん通いして、頼みに行ったんです。 これは重大なことだから、役員の一人として確認しておかなきゃいけない。営業本部長の私、生産本部長の福地、二人で中島さんに直に確認したんです。住友銀行がアサヒビールの状態を見て不安で社長派遣をしてきたのか、中島さんがお願いしたのか。私たちに真実を語ってください、と。 中島さんの言によれば、紛れもなく、こちらからお願いしたものだ、と。住友からどなたか適切な方を派遣してください、私はいかようにでも身を引きます、と言ったそうです。 その時、住友で白羽の矢を立てられたのが高橋吉隆副頭取でした。頭取に一番近い距離にあった人です。しかも父、高橋龍太郎さんは通産大臣、大日本麦酒の社長も務めた人で、ご本人はアサヒビールの吹田の官舎で生まれた人なんです。宿命すら感じます。それで我が社への派遣となったわけですが、高橋さんの人生にとっても大きな節目だったでしょう。 住友グループ入社時、高橋さんの同期入社は五人だったそうです。グループに入って「君は銀行、君は金属」と振り分けられるエリート、いってみれば“絹のハンカチ”だったわけです。それに彼は親父の姿を見てるじゃないですか。銀行とビール会社の仕事を見比べたら、ビール会社がどれほど汗を流し、手を汚す仕事かわかっている。だから「預金の神様」と言われた常務取締役名古屋支店長、延命直松を一緒に連れてきてよろしいか、と提案したそうです。ハンカチを汚すようなことには馴染めないから、自分の持っていない要素を1番持っている延命さんを指名したんです。 中島さんは「願ったりかなったり」と言ったそうです。ただし「サクセスはない」という話だった。高橋さんは、次の社長は延命さんに承継しないと言ったというんです。しかし、私と福地がそれを聞いたのは、延命さんが社長に就任して一期済んだ頃のことでした。今さらそれを言ったところで詮無きことですよ。 高橋さんが延命さんに後継を譲ると言った時「約束が違う」と言えるのは中島さんしかいなかったのに、なぜ言わなかったんですかと、よっぽど言いたかった。 なぜそうまで言うかというと、延命さんは住友から来た歴代の社長の中で最も苦労して、最も実りの少ない人だったんです。一生懸命、努力したのに、アサヒビールの特約店からも、社員からも敬遠された人でした。過激だったんです。銀行の中でもとりわけシビアな住友銀行で、預金集めのチャンピオンだったんですから、それはすさまじい、徹底してますよ。高橋さんはアサヒビールは営業力が弱いと見て、営業力の塊として連れてきたのでしょう。 七一年に、高橋さんが社長に就任した時はシェア一七%。だけどまだつらいから三期途中の七六年に延命さんにバトンを渡した。シェアは、さらに十を割るまで落ちていきました。 苦労しているのだけれども、精神的な工作を平行していないから、浮き上がってしまうわけです。特約店は専売制で、社員以上のロイヤリティ、情熱を持っています。ある時、四国の特約店会議で何か起きたわけですね。特約店の人たちは、住友から来て事情もわからないくせにくらいのことは平気で言う。それを、支店長の掌握が悪いといってクビにした。私のところにも何人かの支店長の名を連ねた血判書が届きました。 その頃、住友銀行は関西相互銀行(現在の関西銀行)を傘下におさめんとして、河田龍介という人を派遣しました。河田さんは「なぜ高橋さんは延命を連れて行ったんだ、俺の方がビール会社には適任なのに」と言った人ですが、関西相銀の抱え込みには失敗しました。その例をとって支店長たちが、関西相銀は住友に抵抗して負けなかったのに、なぜアサヒビールは唯々諾々と従っているのかと非難する。そこまで言うぐらいの空気になっていました。 高橋さんとしても延命さんが苦労して泥まみれになっている姿を見て、せめてものプレゼントが社長就任だったんじゃないか、男の友情としての承継だったんじゃないかと思います。 私がそういう非難にどう応えたかというと、「うちが鉄やセメントのような一次産業であれば、君たちの言うように立ち上がっているよ。しかしビールといい三ツ矢サイダーといい、大衆イメージ商品なのだから、社長とトラブっている間に一般大衆から見放される。ここは成績を上げる以外にない、落ち着け」と言ったんです。 言った後は何か手を打たなければならない。軍隊の組織づくりにならって、延命さんに指揮の取り易い仕組みを作りましょう、と提案しました。 あなたが住友銀行でいくら出来る人であっても、ビールのことは急にはわかりません。私たちは生産者なのだから、ものをつくる生産部門と、ものを売る営業部門と、大きな二つの柱に組織分解しましょう。あなたは生産本部長をしっかり掌握してください。そして、アサヒビールは営業力が弱いと言っているんだから、あなたが住友銀行で一番信頼する人を連れてきて営業本部長に任命してください。そうしたら私が責任をもって社内でギャランティするから、と言いました。 そういう声に乗って、営業本部と生産本部を作ったわけです。それで生産本部長に福地、営業本部長には佐藤芳二(住友銀行常務取締役銀座支店長)が就任しました。そして大阪支店長だった私は、佐藤を補佐して営業副本部長をやれ、と言われたんです。 私は拒否したんですよ。〝生〟論争で、延命さんに「哲学が違う」と言われたからです。社長に、ご自宅では何を飲んでいますかと聞いたら「ラガーだ」と言う。だから私はそれじゃ困ります、と言いました。社長にも論理はあるんです。当時アサヒビールも生産量の六割はラガーでした。お客さんが六割選択しているものを、社長の俺が飲んで何が悪い、と言うわけです。 しかし私の考えは違う。それは今までのしがらみの帰結であって、ラガーでは勝てない、生でしか勝てないという六二年の提案をここまで続けてきた。哲学のある経営でないとアサヒビールの明日はないのだから、社長たるもの木枯らしが吹こうが雪が降ろうが生を飲んでもらわなくては困る。そうすると、社長は大して飲まなくても、酒屋さんは、あなたのことをビールのプロだと思います。ははぁ、やっぱりビールの専門家が飲んでいるんだからと、その酒屋一軒だけでも〝生〟の信奉者に加わるじゃないですか。なにより企業というものは、トップの一挙手一投足が会社のコンセンサスに影響を及ぼすのだから、会社が生で進もうという時に、社長がラガーなんて、そんなものうまくいくわけがありません。そんなことを言っているうち、当時の竹縄常務が延命社長に命ぜられ「中條は今後生、生と言うな」と言いに、大阪支店に来られたことがありました。 私は大阪支店長時代に自衛隊の一日師団長をやって、礼服を着た写真を支店長室に飾っていたんです。それを見て延命さんは「よくそんな余裕があるな」と言う。俺は七尾で兄が病に伏しているのに見舞いにも来ないと兄嫁から冷たく言われてる。とても精神的余裕がない。それを一線の支店長が一日師団長なんて、と言うんです。 それはおかしいんじゃないですか。延命さんは日曜日にゴルフをやってるじゃないですか。私が延命さんの立場だったら日曜のゴルフをやめて気がかりな部分をこなして、それから余裕の部分をやりますと言ったら、「お前とは哲学が違う」となったんですよ。 哲学の違う者が参謀本部にいたら部下が迷惑する。だから副本部長はお断ります、と言いました。延命さんは「お前はいつまで信州人なんだ、理屈っぽい」と怒る。私の提案でビールの素人の佐藤さんが来て、その人が営業本部長なんだから、礼儀から言っても助けるのが当然だと思います。だけど、野党と連立政権を作る時、政策協定をやるでしょう。こういうことは確認しておかなくては。 生については一切口出しをしない、と書いてくれたらお引き受けします、と言いました。そうしたらまた怒って、「お前の『生の理論なんて充分判っている。反対は絶対言わない」と。それで私は副本部長に就きました。その頃、京都の十全会の株買い占めが起きたんです。十全会はもともとは精神病院で、理事長は赤木という人でした。これはアサヒビールばかりを叩いたんじゃなかったんです。住友は五%も株を握ってないのに我がもの顔でけしからん。宝酒造は公私混同してる。高島屋も同じ。陽明学に基づいて悪さを叩いた一連の行動だったんです。 しかしアサヒビールから見れば、それでなくても成績が悪いのに、経営が揺らぐ。それでまた住友に厄介になる。堀田庄三さんがその時の厚生大臣、園田直の後援会長だったのでお願いして、厚生省と警察庁と国税庁に三者協議会を組織してもらって十全会に手入れに入った。たとえばオムツを五回替えたと申告があっても、相手は証言能力がない患者ばかりだから実際は三回かもしれない。そういうことを徹底してやったからギブアップして、株を手放してくれたんです。それは住友の力なくしてはできないことでした。 その株の処理のために、亀岡さんが住友からアサヒビール会長として到来したわけです。その頃、旭化成さんがアイルランドで事業を失敗して、その処理の一つに、銀行との相互株の持ち合いがありました。旭化成は第一銀行と住友銀行の二行をメインにしていたんですが、住友の持ち分の、頭の出た株の処理を頼みに行った。結果、十全会の分の株を旭化成さんが引き受けられた。だからトップの株主になってるんです。 私が宮崎社長ならアサヒビールの株は持ちません。住友銀行は、この株を持ってもらう時に、相応の発言があったのではないでしょうか。答えてくれるはずはないと思いながら、私は取締役会議でそう質問しました。亀岡さんは「そんな深まったお約束は何もありません」と言われましたが…。 その後、旭化成さんはアサヒビール提携委員会を作ってくれて、委員長が今の会長、山口信夫さんでした。こちらからは営業本部長の私。山口さんは士官学校の先輩なんです。だから、ものすごく親近感がわきますね。気を許したら、旭化成から三人派遣すると言うんですよ。銀行からだけでも占領されているように思っているのに、さらに他人要素が入ってくるのでは、うちの連中は戦意を喪失してしまう。何人おいでいただいてもいいから、同人数をアサヒビールから旭化成さんに、国内留学と称して派遣させてください、それなら私も納得します、と言ったんです。総務部長や近畿圏の支社長、今の名だたる役員が行きました。 さらに、真っ先にアサヒビールがトップになった宮崎県は、旭化成さんの本拠地です。そこでサッポロビールの特約店を、ご自分の資本で買収すると言われる。うちにとっては涙の出るほどありがたい話だけれども、私は経営者の一人として、確認しておく責任があります。いかなる条件で、住友銀行が旭化成に株を譲ったのか。…やはり合併含みの話がなかったら、あの熱烈なご協力はなかったでしょう。事実としてどういうことがあったのか。それは山口会長がよくご存知ですよ。 アサヒビールは八六年、「コクがあってキレがある」という提案で生まれ変わり計画を立ち上げ、その年に全ビールの伸長率の三・八倍という成績をいただきました。アサヒビール再生の立て役者は、村井さんの次に八六年に就任した樋口廣太郎社長だと言われます。もちろん私も樋口さんの手腕は否定しません。しかし、村井さんのお膳立てがなくては樋口さんの成功はなかったでしょう。村井さんの悪口を言うことなど決して許されません。 次はこの社長二人を通して、アサヒビール復活・再生までを振り返ります。 2020年06月27日 10:00 2020年06月03日 10:00 2020年06月03日 10:00 2020年06月02日 10:00 2020年06月01日 10:00 2020年06月27日 10:00 2020年06月03日 10:00 2020年06月03日 10:00 2020年06月02日 10:00 2020年06月01日 10:00 2020年05月29日 10:00 2020年05月29日 10:00 2020年05月28日 10:00 2020年05月27日 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村井 勉(むらい つとむ、1918年 3月31日 - 2008年 10月31日)は、日本の実業家。 アサヒビール 代表取締役社長、東洋工業(現:マツダ)代表取締役副社長、住友銀行(現:三井住友銀行)代表取締役副頭取、jr西日本代表取締役会長等を歴任した。 1988年勲二等 旭日重光章受章。 ‚ɏA”Ci3ŒŽj‹ŒSAB MillerŽÐ‚̃Cƒ^ƒŠƒAAƒIƒ‰ƒ“ƒ_A‰p‘Ž–‹Æ‚»‚Ì‘¼ŠÖ˜AŽ‘ŽY‚̎擾iŽq‰ïŽÐ‰»j(10ŒŽ)‹ŒSAB MillerŽÐ‚Ì’†“Œ‰¢Ž–‹Æ‚»‚Ì‘¼ŠÖ˜AŽ‘ŽY‚̎擾iŽq‰ïŽÐ‰»ji3ŒŽjuAsahi Group Philosophyv‚ðŽ{su’†ŠúŒo‰c•ûjv‚ðXVuƒAƒTƒqƒOƒ‹[ƒvŠÂ‹«ƒrƒWƒ‡ƒ“2050v‚ðô’è

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