志村けん ラジオ 追悼

志村けん ラジオ 追悼

宇多丸さんが2020年3月30日放送のtbsラジオ『アフター6ジャンクション』の中で亡くなった志村けんさんを追悼していました。 宇多丸さんが2020年3月30日放送の(宇多丸)ということでちょっとね、世の中的に皆さん、まあ言うまでもなく新型コロナウィルスの拡大を受けて、東京都でも自粛要請が……っていうのは今更、私が言うまでもなく。そんな中、皆さん大変な思いをしながらご生活をされているとは思いますが。そんな中、ちょっと本当にびっくりしましたね。志村けんさん。3月29日の夜にお亡くなりになってしまったという。70歳という、お若いんですよ。(熊崎風斗)今日、午前中に速報が流れてきて。誰しもが本当に衝撃的だったと思いますが。(宇多丸)結構世界のVIPというかビッグネームの方々がコロナウィルスにかかってしまったとか、亡くなった方も出てきたというのもありましたけども。日本においてこれほどインパクトのある名前、特にあの志村さんですから。もう長年、何世代にも渡って。(熊崎風斗)「みんな知っている」と言っても過言ではないですよね。(宇多丸)常にコメディアンとして一本でやられてきて。しかも素晴らしいバイタリティというか、いくつになってもというの志村けんさんがということで。より、誰もが衝撃と悲しみを感じていると思うんですよね。まあ志村さん、これは僕が前の番組の時にも何かの話題が出た際に言ったかもしれないけども。僕はドリフターズ全盛期のドンピシャ世代。特に志村けんさんドンピシャ世代で。1973年にドリフターズのメンバー見習いという形で加入されて、1974年に荒井注さんの脱退を受けて正式メンバーになったということなんだけども。74年、僕の記憶の中で志村さんが正式に『8時だョ!全員集合』に登場したその1回目っていうのがすごい記憶に残っていて。(熊崎風斗)へー!(宇多丸)まだ当時、僕は5歳。小学校に入る前で。ドリフが大好きで。母親に「今日から新しい人が入るのよ。荒井注さんが辞めて」って。それで僕的には子供だから、やっぱり今まで好きだったものが変わってしまうのは嫌じゃない? 荒井注さんの特別ファンだったとかそういうことじゃないんだけど、でも「えっ、今までのがよかった。そんなの嫌だ」って思って。なんならアンチな気持ちがバンバンで。「なんだよ、そんなもん。見習いとかって。どうせ……」っていう気分で5歳時の士郎くんは見ていたんですよ。そしたらやっぱり1回目からもう志村さんが、まあ今考えればめちゃめちゃお若かったわけよね。まだ20代前半とかで。それでお若くて、断然……まあもちろん当時は加藤茶さんがナンバーワンメンバーで。その後もそうです。トップメンバーとしてあったんだけども、もう加藤さんとはまた違う、ものすごい若さゆえの、とにかく体がよく動くなっていう。あと、若干なんか乱暴? ワイルドな感じというか、ちょっと暴走するムードみたいな。「ああ、これは今までにない……いい! 今度の人、いい!」みたいな。(熊崎風斗)そうか。アンチから入ってすぐに虜に?(宇多丸)1回目にして「ああ、もう完全に前言撤回!」みたいな。その前言撤回ぶりに我ながら、子供ながらに。始まる前まではあんなにブーたれていたのに、もう完全にやられてるじゃん!っていう。自分でもその手のひら返し感が面白いなという。そのぐらいすごかったなっていう。で、その後、間もなく『東村山音頭』とかで一気に頭角を現していくっていう感じだったんで、もう直撃世代もいいところという感じでしたね。あとはまあ、僕らのジャンルで言うと、ソウルミュージックとかファンクとか、いわゆるブラックミュージックのマニア、愛好家としても知られていて。有名な『ヒゲダンス』。皆さん、ご存知の方も多い通りテディ・ペンダーグラスの『Do Me』の「ドンドンドンドンドーンドーンドン♪」っていうあのリフをループ……サンプリングループですよ。サンプリングループしたものだし。(宇多丸)それから『ドリフの早口言葉』のバックトラックもウィルソン・ピケットの『Don’t Knock My Love』を使用することを提案したなんてことが言われているというね。(宇多丸)そういう、イケてる趣味人としてもかっこいいなと思ったし。とにかくまあ、もうキャリアの長さというか。(熊崎風斗)ねえ。本当に。(宇多丸)ということでかなり急激に容態が変化されたということで。これはその、教訓にするならばちょっとコロナウィルス、ナメたらいかんっていうことを我々も肝に銘じるあれになったんじゃないですかね。(熊崎風斗)もうみんな関わりがあることというかね。(宇多丸)で、もちろん若い方でも重篤化することがあって。重篤化するとあっという間になってしまうらしいし。(熊崎風斗)そして自分が広めてしまうこともあるし。(宇多丸)だから、その顔の浮かぶ方に迷惑が行くかも……ということで。だからもちろん、これは本当に悲しいことだけども、それを教訓にするとすればということでもあるのかなと思ったりもしましたけどもね。いや、まいった、まいった。これはちょっと本当にまいった。なんか、昼の番組を見ていても割とバラエティ色が強くて芸人さんがいっぱい出られているような番組とかだと「うわっ、これはちょっと今日は辛いだろうな……」って思いながらね。ワイプとかを見ていても……っていう感じはあったんだけども。でも、とはいえたとえば志村さんの遺志ということを考えたら、そこで暗い顔をしているということが、じゃあ志村さんのご遺志なのか?って考えると絶対にそういうことはないだろうとも思いますからね。みんな、各々が各々の持ち場でやれることをやるという意味では、たとえば芸人さんは芸人さんで。我々は我々で……ということもありますよね。<書き起こしおわり>アフター6ジャンクション(1)【カルチャートーク】など | TBSラジオ | 2020/03/30/月 18:00-19:00 — みやーんZZ (@miyearnzz) 志村けんさん Photo By スポニチ フジテレビは4月1日に「志村けんさん追悼特別番組 46年間笑いをありがとう」(後7・00)を放送すると発表した。 「追悼 志村けんさん~志村さんが愛したソウルミュージック」。 新型コロナウイルスに感染して闘病されていたタレントでコメディアンの志村けんさんが3月29日、肺炎でお亡くなりになりました。 新型コロナウイルスによる肺炎で逝去したコメディアン・志村けん(享年70)の訃報に際し、フジテレビ系の「志村でナイト」などで共演した磯山さやか(36)がマスコミにコメントを寄せた。「信じられ … 音楽ジャーナリスト高橋芳朗さんによる洋楽コラム(2020/04/03)radikoで放送をお聴きいただけます(放送後1週間まで/首都圏エリア無料)高橋:本日はこんな特集をお届けいたします。「追悼 志村けんさん~志村さんが愛したソウルミュージック」。新型コロナウイルスに感染して闘病されていたタレントでコメディアンの志村けんさんが3月29日、肺炎でお亡くなりになりました。70歳でした。まだ受け止められないという方も大勢いらっしゃると思いますが、今日は音楽を通して志村さんを追悼できたらと。もしかしたら「音楽コラムで志村さんの追悼企画ってどういうこと?」と思われる方もいるかもしれませんが、志村さんは大の音楽好き、熱心な音楽マニアなんですよ。特にブラックミュージック/ソウルミュージックがお好きなようで。志村さんが亡くなったあとSNSなどでも話題になっていたのでご存知の方もいると思いますが、志村さんは1980年前後には音楽雑誌でアルバムレビューを執筆していたほどなんですよ。もちろん、志村さんは当時すでにドリフターズの中心メンバーとして子供たちに大人気で。TBSテレビで放映されていたドリフターズの出演番組『8時だョ!全員集合』の視聴率が40パーセントに達していたころですね。そんな状況のなかで音楽雑誌に寄稿していたわけですから、志村さんがどれだけ音楽好きだったのかはここからもよくわかると思います。そんな志村さんの音楽趣味はドリフターズのギャグやコントにも強く反映されていました。その最もよく知られている例が、1979年から1980年にかけて『8時だョ!全員集合』のコントコーナーで加藤茶さんとのコンビで披露していた「ヒゲダンス」です。志村さんと加藤さんが黒の燕尾服につけ髭姿でダンスをしながらいろいろな芸に挑戦するコント、皆さんよくご存知ですよね。その「ヒゲダンス」のテーマ曲として使われていたのが、1980年にたかしまあきひこ&エレクトリック・シェパーズ名義でシングルが発売になった「『ヒゲ』のテーマ」です。スー:いやー、子供のころこの曲を聴くと心が沸き立ったよね。最高!高橋:この「『ヒゲ』のテーマ」には実は元ネタがあるんですよ。それが1970年代に絶大な人気を博したソウルシンガー、テディ・ペンダーグラスの「Do Me」。あのおなじみのリフ/ループはこの曲から引用されているんです。これは当時テディ・ペンダーグラスの「Do Me」が好きだった志村さんが、たかしまあきひこさんにレコードを持っていってあのおなじみの「『ヒゲ』のテーマ」にアレンジしてもらったという経緯があります。アレンジの方向性には志村さんの意向も取り入れられているらしいですね。ここで注目したいのは、テディ・ペンダーグラスの「Do Me」が収録されているアルバム『Teddy』のアメリカでのリリースは1979年7月。だから、ほぼタイムラグなく最新のアメリカのソウルミュージックをコントに取り入れいているんですよ。しかも、この「Do Me」はシングル曲ではなく単なるアルバム曲で。スー:ええーっ!高橋:うん。このあたりから志村さんがいかに熱心に音楽を聴き込んでいたかがよくわかると思います。スー:しかも、それをお茶の間の子供たちにドーンと届けたわけだもんね。高橋:そう。そのへんがまたかっこいいよね。スー:うん、かっこいい!高橋:志村さんがアメリカのソウルミュージックを引用したケースは他にもあります。「ヒゲダンス」の直後、これも『8時だョ!全員集合』の少年少女合唱隊のコーナーから派生して1980年にヒットした「ドリフの早口ことば」。高橋:この「ドリフの早口ことば」のオケもソウルミュージックからの引用で、元ネタは「ダンス天国」などのヒットで知られる名シンガー、ウィルソン・ピケットの「Don’t Knock My Love」。1971年にアメリカのソウルミュージックチャートで1位を記録したヒット曲です。これも先ほどの「『ヒゲ』のテーマ」と同じようにたかしまあきひこさんに音源を持っていってアレンジしてもらったのだと思うんですけど、「ドリフの早口ことば」で注目したいのはその手法ですね。ソウルミュージックやファンクの楽曲の一部分を抜き出してそれをループさせてトラック/オケを作って、そこに早口言葉/おしゃべりを乗せる。これはもうラップですよ。スー:そうだね。高橋:先ほども触れた通り「ドリフの早口ことば」のシングルは1980年12月のリリース。そして、最初のラップのヒット曲であるシュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」が発売になったのが1979年9月。スー:フフフフフ、早いな!高橋:そうなのよ。「Rapper’s Delight」はアメリカのソウルミュージックチャートで4位にランクインする大きなヒットになっているから、もしかしたら志村さんは「Rapper’s Delight」にインスパイアされて「早口ことば」のあの手法を思いついたのかもしれないですね。これはあくまで妄想にすぎないんですけど、でも「ヒゲダンス」のテディ・ペンダーグラスのケースを踏まえるとまったくない話でもないのかなという気もします。では、その「ドリフの早口ことば」の元ネタを聴いてもらいたいと思いますが、今日はオリジナルのウィルソン・ピケット版ではなく1973年にリリースされたダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイのデュエットによるカバーバージョンを紹介したいと思います。こちらの方がより「早口ことば」のアレンジに近いんですよ。スー:すごい! 素晴らしい!高橋:その他、『8時だョ!全員集合』のコントやギャグに関する志村さんのソウルミュージックのオマージュとしては、これも少年少女合唱隊のコーナーから生まれた1976年の「東村山音頭」 もそうなんですよ。「東村山音頭」は四丁目から始まって三丁目、一丁目と進んでいく構成ですが、一丁目はこんな感じでした。高橋:この「いっちょめ、いっちょめ、ワーオ!」のフレーズ、これはファンクの帝王ジェームス・ブラウンのシャウトがモチーフになっているそうなんです。ちょっと聴き比べてみましょうか。高橋:これ、JBからインスパイアされたというのは志村さんご自身が明言されているんですよ。スー:すごい! しかし本人はめっちゃおもしろかっただろうね。JBにインスパイアされてやったことを子供たちが大喜びで「いっちょめ、いっちょめ、ワーオ!」って真似してるんだからさ。高橋:この志村さんが「東村山音頭」で披露したジェームス・ブラウン譲りのシャウトなんですけど、実は志村さんがドリフターズに加入して最初のシングル、1976年3月にリリースされた「ドリフのバイのバイのバイ」ですでに聴くことができるんですよ。ここではより露骨にJBの代表曲「Get Up (I Feel Like Being a) Sex Machine」の有名なフレーズ「ゲロッパ!」を叫んでいて。スー:ええっ!

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